僕の脳出血による障害は左半身の運動麻痺と感覚障害の二つである

僕は身体が不自由であるという運動麻痺なんかより、

感覚障害の方がはるかに辛いのだ

感覚障害なんて、目には全く見えないから未経験の人には全く理解不能だろう

感覚障害とは、

僕の場合、いわゆる五感のうち、

左半身の皮膚感覚や左半身の動きが認識できない

というような障害である

五感といえば、

古来からの分類による

5種類、すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚と言われている

しかし、人間の感覚はもっとた多様なものを認識する感覚がある

五感のうちの触覚(つまり肌で感じる感覚)だけでも、

触覚(接触感)、痛覚、温度覚(冷感 温感)、圧力感 深部感覚(関節覚ともいう関節の動き

や位置や角度感) それに位置感覚と距離感(肌と外部のものとの距離感)である

人間には少なくともこえれだけの感覚があり、これらの感覚を状況に応じて駆使して自分の置かれている世の中を認識しているのだ。

例えば手で熱いものに触ると、すぐに自動的に温度覚が働き、熱いと感じ、

脳は火傷の危険えお予知し手をすぐに離せ!という運動命令して、熱いものから手を離させるのだ

でもこのとき決して痛覚が働くことはない。

「痛みではない」とすぐも判断できるのだ

人間の身体とはスゴイものだ

でもこれらの「肌で感じる感覚」のほぼ全ての感覚を僕の左半身は失っている・・

たとえば、痛覚と温度感覚がゴチャまぜになっているのだ

どういうことかというと、僕は「冷たさ」を「痛み」として感じてしまう

具体的には洗面所で水道のコックを開け水を出し、洗面台に水が当たって水しぶきが立ちそれが左手や左腕にかかると

針が刺さっているような痛みに襲われるのだ。


まるでゲゲゲの鬼太郎の毛針攻撃を受けているような感じで痛むのだ・・(/_;)

俺はまだ生きている!脳出血・半身不随になった元IT系社長の独り言-鬼太郎

これはかなり辛い・・

夏、どんなに暑くても冷たいシャワーなんかは

僕にとっては拷問以外のなにものでもない

他にも圧力感も分からないので、

たとえば柔らかいソファーに座っても右半身はソファーの柔らかさを感じ気持ちいいと感じるが

左半身は「何も」感じていない・・ソファーの触れていることさえ分からない

左半身は常に薄皮を一枚は剥がされ、そこに風を受けているのような

痛みというか痺れ感しかないのだ

だから肌で周囲の状況を感じることがで全くできないのだ

他にも人ごみの中で左側が人にぶつかって右側によろけても

なぜ、よろけたのか、

なぜ右側に向けて力が働いたのかさえ分からないのだ

ここまで感覚が壊れてしまっているという辛さは言葉には表現できない

何しろ、「この世を」感じることができないという何とも言えない悲しい感じである

古来、インドのあのブッダはこの五感の事を五蘊(ごうん)と言って、

五蘊は外界(肉体や物質)と内面(心)との間の中間に位置するものであり、

外界(肉体や物質)を内面(心)に認識させる機能で、

この世を心が認識するために重要な器官であり、心の一部であるとまで言っていたという

つまりその五蘊の一部でもあり重要な感覚が僕にはないのだ

つまり心で世の中を認識するための機能がかけているということになる

これがどれほど辛いのかんなんて、経験してみないと絶対にわからないだろう


実に悲しいものである

例えば、最近この冬に感じることは

寝床に入って身体を温めるため毛布を掛けるけど

右半身は毛布の柔らかい感触と心地よい温かみを感じるのだが

左半身はそんなことは何も感じない

ただ上述のように痛みというか痺れ感だけを感じているだけなのだ

これが何とも悲しいのだ・・


こんな風に感じているなんて外部からは一切見えないし、見えないから理解もされない

運動麻痺ならまだハッキリと動きがぎこちないので目でみると

すぐ左半身に異常があり、不自由なんだなって周りもすぐに気が付くし、

何が大変かも察しがつく

と思う

でもこの感覚障害だけは誰にも理解でしてもらえないのだ


こういった目に見えない障害というものは他人に理解してもらえず、辛いものである

理解してもらえないということ=そこに障害者が存在して苦しんでいる事さえ気付いてもらえない

という事だと思う

それは、、昔のように障害者を今は差別用語になっている「カタワ」というような言葉で差別?

(僕は言葉を使わなくしただけで差別意識がなくなったとま思えないが・・)

されるよりも辛いものだ

たとえ少しは遠ざけられても存在を意識されてもらっている方がマシだと思う


なぜなら、

目の前で自分はとてつもなく苦しんでいるのに知らん顔で通り過ぎていってしまう

からだ



こういう状況はとてつもなく孤独というか疎外感のようなものを感じるものである

誰にも分かってもらえない・・

という寂しさのようなもの・・


これは

障害者を障害者として「区別或いは差別して」扱わず、健常者はとして(差別なく)扱う

という事とは全く別の問題であると思う

問題は「無理解」と「無知」の罪でもあるとも思う



この世の中には目に見えない障害で苦しんでいる人は多くいる

最近ならアスペルガー症候群などの精神疾患なども理解してもらえない障害の代表格だ

その他にも、あらゆる難病、内部疾患、発達障害など、

社会で認知されず、福祉政策でも「制度の谷間」に落ち込み、

サポートが受けにくい「目に見えない障害、困難」や痛みを持つ人がは数多くいると思う。


見た目には何の異常もないから誰も気付かない

どんなに苦しんでいても・・だ


気が付かないということ=健常者のように扱われるということだ

ところがそれは、その「扱い」がその障害者にく苦しみを伴もたらすものであるにも関わらず

何も気にされず、「扱われ」結果として苦しまされるからだ。

例えば、うつ病などが分かり易い例であろう

うつの人には「頑張れ」という言葉はひどく苦しませるという

でも相手が単に落ちこんでいるように見えてうつ病だと気付かない人は

つい(善意で、勇気付けるつもりで)「頑張れ!」と言ってしまうものだと思う

この言葉がうつ病患者を酷く苦しませてしまうことを知らずに・・・である

こんな気付いてもらえないという悲しさに「星の王子様」の以下の一説を思い出す


「 さよなら。 」

ときつねがいった。

「 ぼくの秘密をいうよ。すごくかんたんなことだ。

心で見なければ、よく見えないっていうこと。

大切なことって、目には見えないんだよ。」




ここで僕が思うのはソクラテスが言ったという

無知は罪

という言葉だ


これは別に障害者に対してだけの問題ではない

今アフリカや中東で起きているテロや民族間の虐殺というような争い

の原因の根底に我々先進国の経済発展に起因して起きているということ

そしてその結果どんな悲惨な残虐行為が行われているのかも

全く知らない!知ろうとしない!

だから何をして良いかもわからない!

これが無知は罪ということだと僕は思う

このことに関しては僕自身が無知であったと反省している

理解してもらえない辛さを知ってから・・

だからこそそういう人たちの元で経済発展できた日本などの先進国は

今、貧困やその貧困のために恐ろしく不衛生な環境でしかいきていけない

国へ伸ばせてもらった環境技術力によって

支援をしていかなければならないのではないかと僕は思っている

だから僕は再生可能エネルギー技術や水処理などの環境技術の普及活動を

この身体でできる限りいつまでもやり続けたい・・と思っている