今日ふと気が付いたことがある・・

昼食にレストランに行った・・

レストランに入ろうとしたとき

レストランから人が出てきた

僕が入ろうとしたとき

出てこようとした人のひとりが

僕が片麻痺であかることに気付いたようだ

な僕は左麻痺で右手に鞄を持っていた

その人は咄嗟に僕にドアのノブを持つ手が無いことに

気付いたのか、親切にも入口のドアを開けて僕が入るまで

開けていてくれた。。

ありがとうございます。

僕は礼を言いながら中に入った

障害者への気遣いだった

ふと

この光景、以前にもあったなと思った

そうだ

今の夕方から行って行っている会社に初めて出社したときだ

そのときも、僕を気遣ってドアを開けてくれた

たぶん以前の健常なときの僕とのあまりのギャップによる

気遣いだったのだろう

でも今は・・ない

ふと思った

障害に「慣れる」

障害者本人ではなく、

周囲の人々ではないのか


以前も書いたように中途障害者が

自身の障害に「慣れる」なんてことは永遠にない!

なぜなら、健常な頃の自分のイメージが

永遠に(死ぬまで)消えることはないからだ。

そのイメージが残っている限り

健常な頃に自分とのギャップに苦しむ

「慣れる」なんてことはあり得ない

「受容」もありえない


でも

周囲の人々は「慣れる」のではないか

それは「障害」に慣れるのではなく

きっと「障害者の存在」に「慣れる」のだ

その証拠に時間の経過と共に気遣いが少なくなる

これは何も自分を気遣ってくれと言っているのではない

障害者は決してその障害」に慣れることなんて

な決してないことを「理解」してほしいだけだ

だって僕自身健常者の頃、障害者の方を見て

人間って障害を持ってもあの身体に

慣れて(受容して)生きていけるもんなんだな

と思っていたから・・

そして僕自身が

「障害者の存在」に慣れたことを思い出した

そういえば僕の会社のあったお同じフロアには

脚の不自由な人がいる会社があった

その人は脚の短い人だった

たぶん事故か何かで脚を切断されたのだろう

僕は自分の事務所から出てトイレに行こうとして

はじめてその障害者の方に出くわしたとき

正直とまどいながら道を譲り、先にトイレに入ってもらった

でも、何回か出合っていつうちに

道を譲ることはなくなっていたように思う。

別に邪魔していたわけではないが

特に気にならなくなっていただけだった

だからいつしか気遣うこともなくなっていた

そうだ!

障害になれるのは障害者本人なんかではない

周囲の人々が慣れるのだ!

周囲の人々が障害者の存在に慣れるのだ

そして気にならなくなるのだ


よく考えるとこれは家族の方が顕著に現れている

僕がリハビリ病院から自宅に戻ってきた直後は

家族は僕に気遣った

何を手伝えばよいのか戸惑いながら・・

でも今は、それこそ放ったらかしだ

健常者のように扱われている

風呂に入るのに着替えが遅いと

「早くして」

と文句を言われ

左側にあるものが取れなくて困っていても

知らん顔・・

まあ別に良いのだが・・


僕はまだまだ自分の障害に「慣れて」なんかいないけど

家族が僕に慣れているのだ

でも・・

それでいいのだ

変に気遣われるよりは・・ね